古墳を観に行くのが好きです。
どんな方の墓なのか妄想します。
福岡の田川というところは、かつては炭鉱の町として栄えました。ここに香春(かわら)町という小さな町があります。国道沿いのセメント工場が物々しくて目を奪われます。
以前にここを通った時に、鏡山神社の大きな鳥居と河内王陵の案内板が目に入り、気になっていました。
鳥居の後ろにはこんもりとした小山。これは大きな陵だと思っていたのですが、実は、河内王陵はその山の左脇に小さく控えていて、落胆。
しかし、宮内庁の立て札が!
九州で「宮内庁」の文字を見ることはなかなかありません。
河内王の系譜はよくわからないようです。
彼は都でキャリアを積み、太宰府の帥に任ぜられます。しかし、都から遠く離れたこの地で亡くなります。
しかし、なぜこんなところに葬られたのでしょう。
香春町は、太宰府政庁跡から、東に一山越えて、車で一時間はかかります。
ここで鏡山について少し。
神功皇后が新羅に出征するまえに、この地で天神地祇に祈りを捧げると、鏡が石になってしまったので、鏡山に納められたとか。
ここから少し離れたところには、鏡池という池があります。神功皇后がその池に姿を映し、身だしなみを整えので、そう名づけられたそうです。
香椎で仲哀天皇が亡くなり、神功皇后は亡き天皇に代わり、妊娠中であるに関わらず、朝鮮半島の新羅(しらぎ)という国に出征します。
身重で新羅に出征するのはもちろんですが、その前にこの地に来るのは、なかなか大変です。玄界灘から遠賀川を上ってきたかも知れないと言われてますが、香椎から香春は、大宰府よりさらに遠い。
香春には何かあるのかもしれませんね。
今回は調べきれず。
妻(もしくは姫?)の手引女王の悼歌が三首残されているそうです。
大君(おほきみ)の 和魂(にきたま)あへや 豊国の 鏡の山を 宮と定むる(万葉集3-417)
豊国の 鏡の山の 岩戸立て 隠(こも)りにけらし 待てど来まさず(万葉集3-418)
岩戸破(わ)る 手力(たぢから)もがも 手弱(たよわ)き 女(をみな)にしあれば
すべの知らなく(万葉集3-419)
どうしてこの都からはるか遠く離れたこの地を我が背子は永遠の宮に選んだのでしょう。非力な私は、あなたに再び会いたいと思ってもどうすることもできません。
残された手引女王のことを思うと切なくなりました。
この鏡山の前には国道が通っています。博多や鳥栖方面と、行橋、そして北九州や大分をつなぐため、ダンプカーもかなり通り、交通量がかなり多いです。
交通の要所であったのは昔から変わらなかったよう。
古代には大宰府と豊前をつなぐ田河道と呼ばれ、駅も置かれていたとか。
多くの人々が行き交う様子を、河内王は今も眺めているのですね。
右の小山が鏡山です。河内王陵はちょうど裏側です。