前回の若松から遠賀川沿いに南へ行くと、江戸時代の宿場町木屋瀬があります。長崎街道の途中とあり、九州の大名の参勤交代や長崎への旅人に多く利用されたのだとか。
間取りは表三間で奥行きがかなりあります。京都や長崎でも見られるし、江戸時代の町家は表は狭く、奥に長い建物が多いのかな。
江戸時代は絞蝋業、明治時代は醤油造を営んだ高崎屋。七代目四郎八は、高山彦九郎や頼山陽とも交流があったらしいです。かなり大きな商家であったよう。
この奥に、住居や蔵などがあります。ラジオの放送作家伊馬春部の生家でもあります。太宰治たちと写った写真を見せていただきました。
商い人は表向きはあくまで質素に。
ということで、畳は縁のない質素な国東半島の琉球畳が使われています。
…これってまさか七東藺?!杵築藩の家老旧家で見ましたよ!藺草を育てる農家さんも減ってて、今は希少な畳ですよね?!
とか言いたかったけど、案内の方が困るのでやめました。
つい、好きな引き出しをあてられちゃうと、しゃべりすぎてしまいます。
この画像ではわからないですが、雨戸はパーティションのように、別の面に滑らせていけるので、雨戸の収納箇所も少なくて済むそうです。
カメラ側が庭になっており、蔵や母屋はこちらの方にあったそうです。
二階天井が丸くなっていて、おもしろいですね。(船天井)
この写真ではわかりにくいですね。屋根は表から奥へ低くなっていっています。
また、この宿場町は先に書いた通り、遠賀川沿いにあります。橋を架けることは禁止されていたので、渡し舟頼みなのですが、大雨になると当然渡れません。それどころか、度々氾濫し、町を浸水していたのです。
危なくなったら、各家で滑車などで、二階に物をあげていたのだとか。柱には浸水する部分を取り替えた継ぎ目がありました。
こんな広い川に橋がかかっていなかったなんて。
ちなみに、遠賀川は嘉麻から八幡までつなぐ大事な交通路。
さて、木屋瀬宿記念館に行くと、多くの歴史上の人物がここを通ったことがわかります。
シーボルトもこの辺りでも、日本人を治療した記録が残っているそうです。
シーボルトの医学や科学の知識は重宝されました。さらに、福岡藩は外貨を儲けようと、シーボルトに石炭の取引を持ち掛けたらしいです。
炭鉱の本格的な開発は明治時代になってからですが、江戸時代にはすでに、石炭は燃料として使われていたそうです。
また、三条実美たち公家が、京から落ち延びて、長府に身を寄せたあと(七卿落ち)、太宰府に行くことになりますが、その途中、木屋瀬に立ち寄った時のに使った箸が残っていました。
京のお公家様に給仕する機会など滅多になかったでしょうから、大事にとっておいたのでしょうか。(ひょっとするとオランダ人の方が見る機会が多かったりして)
他にもおもしろい話がたくさんあるのですが、今回はここで筆を置くことにします。