日出(ひじ)藩(現在の大分県速見郡日出町)は、豊臣秀吉の正室おねの甥の子孫が代々治める国だったとか。
石高三万石。藩祖はおねの兄木下家定の三男木下延俊。
関ヶ原の戦いでは、義兄細川忠興*1の説得で東軍につき、徳川家康に加勢。後に日出藩の藩主になります。*2
木下家の伝承だと、大坂の陣で亡くなったはずの豊臣秀頼の子国松は、薩摩に逃れ、木下家の子としてかくまわれ、藩領を分け与えられたことになっているそうですが、真実は如何に。
日出城(陽谷城)
日出城(陽谷城)は現在小学校になっています。小さなお城だったようですが、石垣は立派。設計は細川忠興です。さらに構築は石垣作りの技能集団穴太衆だとか。
下に住宅が見えますが、昔は海だったそうです。
こちらは鬼門櫓です。
人柱祠。工事中に老武将が収められた棺が発見され、人柱だったのではないかと見られているそうです。
天気が良ければ、別府の街の奥に鶴見岳や由布岳が見えたそうなのですが、残念。
致道館
致道館は、安政五年(1858年)第15代藩主木下俊程(としのり)によって創立された藩校です。
もともとあった場所からは移築されたそうです。
入学は八歳、藩費で学ばせてもらえる特待生もいました。二階は寄宿部屋になっています。(修繕されたが、柱や梁は当時のもの)
十六代藩主俊愿(としまさ)も教育には力を入れました。
致道館では、座学(和漢洋の読書や手習い、講義など)はもちろん、算学や実学(武道や馬術など)も教授される珍しいカリキュラムだったそうです。
さらに、上級生には、月に数回、藩主自ら講義を行ったのだとか。教育への熱意が伺えます。
今回はまわれませんでしたが、日出には、回天の訓練基地や、多くの偉人の史跡も残っています。