2月17日、お誘いを受けて、福岡県の宇美町の県民の森に行きました。
駐車場に車を停めて、研修センターの方へ進むと早速、城門の礎石のあとが展示されていました。
この県民の森は、自然を楽しめる登山やウォーキングの場所になっています。
歩くと各所ですぐに何らかの遺跡に出会います。
この四王寺山には、白村江の戦いの後、新羅の侵攻に備え、天智天皇によって山城が築かれ、水城を連ね、太宰府を囲む防御施設でした。
霞んでわかりにくいですが、太宰府の市街地、太宰府天満宮、九州国立博物館が見えます。
この前の週は、太宰府天満宮の方にいたのですが、このように高いところに城郭が連なっていたとは。
先週はあの下の街にいたのにhttps://t.co/sgrjZSBfPF
— 奈倉まゆみ@創作本陣 (@heikoES) February 17, 2019
この盛り土の壁がぐるりとこの山を囲んでいるのです。
写真はないですが(最後のリンクを見ていただけると)、百間石垣もまたすごい。1300年以上昔に山の上にこの石垣を造ったなんて。横を過ぎる時、思わず声が。
ここで太宰府を守っていたのが、東国の防人たちだと言います。
きっと言葉も風習も違う上に、過酷な労役。大変な勤めだったことでしょう。傭役が終わっても、自己負担での帰路になります。困難な旅路に途中で亡くなる者もいたとか。
負担が大きく、効率が悪いためか、757年になると、衛士は九州で徴用されるようになりました。
新羅が国を挙げて攻めてくることはありませんでしたが、度々新羅の海賊や高麗人が九州沿岸を荒らしたため、奈良時代から平安時代にかけて、朝廷は防衛を緩めることはできなかったようです。
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水路や貯水池、倉庫など、衛士が常駐するためのものも残っています。
仏教関連の遺構
少しだけ、話が逸れます。
この四王寺山、「寺」がつくので、どういうことか調べてみると、宝亀五年(774年)新羅からの呪詛(?!)から日本を護るため、この山に四王寺(四王院)が建立されたそうです。
散策していると、石仏が所々にあるのですが、こちらは江戸時代後期のもの。
火災や疫病、異常気象など、天変地異が続いたため、西国三十三ヶ所の霊場に倣い、建立されたものなのだそうです。
こちらは焼米ヶ原近く岩屋山の玄清法印という琵琶法師の墓
また、時代がさかのぼってしまいますが、平安時代、筑前の琵琶法師の開祖と言われる伝説の僧の墓です。
また、経を納めた経塚も幾つか発見されているそうです。
太宰府では宝満山が有名ですが、四王寺山も、仏教信仰にも深い関係のある山であったようです。
太宰府口城門
焼米ヶ原から降りると、すっかり土が削れていますが、ここに城門がありました。
かつては堅牢な版築の壁に城門があったようです。
ここからすこし北側に行くと、麓に大宰府政庁跡や水城が見えました。
ちなみに、山城はここだけではありません。
他に基肄城や阿志岐山城などの遺構も発見されていることを考えると、どれだけ大きな防護施設が築かれていたのかと、ただただ舌をまくばかりです。
発掘情報|九州歴史資料館|Kyushu Historical Museum
こちらのサイトも参考にどうぞ。当ブログより、画像や説明が充実しています。
最後に
今回の散策で、知らないことがたくさん出てきて、興味が広がるばかりです。
他の山城のことや水城のこと、そして大宰府政庁のこと、もっと調べてみたいと思いました。(写真もたくさん撮ればよかった。)
最後に、この探索に誘ってくれたお二方に感謝。